昭和41年11月25日 夜の御理解
末永静行
御取次ぎを頂いて、生活の全面の上に、おかげを受けていくこと、信心の稽古をさせて頂くこと。もうほんとに信心は、確かにそのお取次ぎを頂いて、それこそ生活全面に渡っておかげを頂いていくことなんですけれども、このへんいろいろ、これはもう言葉では、理屈ではお話ができないような問題がやはりいろいろあるんですね。今日も、福岡の高橋さんが、お礼にでてみえてましてから、もうこの高橋さんはもう、それこそもう、もうそれこそもう一事が万事お取次ぎを下さるですね、( )去年一昨年でしたか、店を( )の方へあーして、( )を作られました、それで、自分のところを大改造をなさいましてから全部店の模様が変わったんです、その時になんかはもう壁の色、こんな机の色、どういう材料、どう言うようなことまで、勿論どう言う大工に、どう言う建設屋に行きますか、といったようにいちいち御真意、細かく伺ってからでした。
私は、あちらの店へ行ってから思いました事は、はぁー神様のセンスは素晴らしいなと私は思ったんです、私はすし屋さんにどう言うようなものを使って、どういう色をつかんならんと言う事が分かってるはずがないですけれども、もうそれこそ一事が万事に御真意を頂いてからの事、玉砂利の事まで、もう、そうでございましたよ、本当に見事なですね、店が出来てきおった。
そんなわけですが、まさに一事が万事そうです。今日も毎年、寿司桶をつくらるんですね、やっぱ何百って作られんですけど、一年立つとそれがもうやっぱ減ってしまうんですね、というて、その、去年は( )と仰ったが、今年はどんな風にさせてもらおうかといわれたんですね、もう去年と同じのでいいじゃないかと、例えばそれでいいのですけれども、やっぱご真意を頂かなければ注文をする気になれないとこういうわけです。
そして、その後に先生、私はこうやって、なんでんかんでんこうやってお取次ぎを頂くのですけれども、本当に実を言うたら恥かしいですけれどもと言われるんです、こんな事までお取次ぎを頂いて、恥ずかしい事があるもんですか、本当に生活前面に渡って御取次を頂いておるのですから有り難い事だと私は、まあ、お取次ぎを頂かれる事が有り難い事だと、お取次ぎを頂いたら、ならたとえそれがよかろうが悪かろうが、そんな事は問題じゃない、安心しておれると言う事はありがたいと事です。
同じ菊栄会の文男先生やら、正義さん達の場合なんかは、もうおかげを頂きまして有り難うございます、もうお取次ぎを頂くのはちょうど、別にどうのこうの、特別お願いがある時なんかは、特別自分の心に図らない時にはお取次ぎを細々と頂くけれども、いやいや、一日もうおかげを頂いて有り難いと言うだけの事。
ですから、私共もあー言う風になりたいと思うんですけれども、やっぱりこう、細々と恥ずかしいですけれどもお取次ぎを願わなければおられないというわけです、本当にもうどちらが本当か分からないぐらいになるのですけれども、けれどもね、高橋さんあなたがそうやってお取次ぎを頂かれるとね、はぁー今日は高橋さんがどこへ言ってる、今日は何をしてる、お店でどう言うことがあってると言う事を私が分かるんだ、言うならば、お取次ぎを頂いておかげを頂くと言うようなもんです、まあ、言うならば、私の事を、あんたが親先生とこういう。
例えば、ならこれは親孝行の息子とその親とがです、今日はお父さんどこの、お百姓さんじゃない、今日はどこのお畑をしようか、というと、今日はなにをしようかと、今日はあそこの畑をせろと、今日はどこの谷に入れとというようにそのお父さんがいちいち子供がする事をよく知っていおる、そして、お父さんの心のままに親子のものが話し合って仕事をしておるといったような具合にです、まあ、親もこれなら安心だという訳なんです、だから、お取次ぎを頂いておかげを頂くと言う事よりも、そう言う意味であんたの細々としたお取次ぎを願われると言う事はありがたいと思うんですけれどと言うたら、そうですね、実は私もそうなんです、本当に一遍先生聞いてもらっとけば安心をいったと言う気がするという訳なんです。
同時に、なら今日の御教えを頂いておりますと、身しのぎの出来るような信心になれとも仰っておられます、これはどう言う意味かは私も良く分からない、ね、けども自分の事は自分で神様にお伺いぐらいできるような信心になれよとこう仰っておられる、身しのぎのできる信心。
ですから、私はいつもお取次ぎを頂かせてもらってから、実は私もそこんところに焦点をおいて稽古をさせて頂きよるんですよ、実は今日も心の中に神様にお願いをさせてもらってから、例えば寿司屋なら寿司屋のことでも、去年注文した同じものを注文させて頂きたいと言う心に答えがでておった、けれどももう一遍お取次ぎを頂いてから確かめようとこう言うわけなんです、ところが、私が思うた通りに先生もやっぱ前の通りでよかろうとこう仰った、そう言うときにです、例えば、( )お弁当を何台作ったが良かろうかとお伺いするけれども、自分で自分の心でまず神様にお伺いをしておる、そして、はぁ今度は一千だな二千だなという事を心の中に頂いておってお伺いをする、そすと、親先生が仰る自分の頂いておる事がぴたっと一致するです、自分も段々身しのぎの出来る信心が出来ていきよるなと言う、それをある分だけれどもです、やはり、お伺いをしなければおられないというこういう訳なんです。
だから、身しのぎと言うのはそう言うような意味のことも言えれるんですね。いちいち、走ってきてからお願いに来るわけにもお取次ぎを頂きに来るわけにもまいりません、ですから、自分で神様にお願いをさせてもらう、そして、いわゆる、( )こうする事が本当だと、こうする事が信心だと言うそのほうをもたらせてもうと言う事。
生活の前面に渡って御取次を頂いて、信心の稽古をさせて頂くと言う事は本当にどう言う意味かと言う事が難しい、ですから、( )でけておる人は今日も万事にどうぞよろしゅう、とりわけ、今日はどう言うことをさせてもらうというようなその事の取次ぎを願って、こうこうさせてもらいます、そして、神様のお取次ぎのお働きの中に自分が今日一日があると言ったようなことを頂くと言う事がおかげを頂く事が一番一般的なんですけれども、それとても細かに言うと中々難しい。
ですから、どうでも自分の( )時には、なら、高橋さんなら高橋さんで言うと電話ででも、実はこれをさせてもらいましょうかと神様はいいですがと教えて下さるからいいようなもんですけれども、なら、そうではなくてもやはりおかげを受けておる人もあると言う事、例えば、なら菊栄会の正義さんとか、文男先生なんかも場合もそうなんです、いちいちお取次ぎを頂いておるという訳じゃない、けれども、やはりお取次ぎを頂いておると言う事と同じ信心がでけておると言う事がいえれる、ですからここはどう言う信心がでけておるかと言うても分からん、ね、親先生只今からこう言う仕事を受けさせて頂きますと、ここに出て金光様でもおそらく正義さんはそう言う生き方でおかげを頂いておるでしょう、文男さんでもそうです、今日はどこどこのほうへお商売にでらせてもらいます、やっぱ朝言えば、その形、目には見えないけれどもそう言うお取次ぎを心の中に頂いて、いわば、お商売にでらせていきよるでしょう。
だから、この辺は中々ハッキリしたお取次ぎを頂くと言う事がです、実に難しい言うたら難しいデリケートと言うたら実にデリケートである、そこで、ここで私が一つ思う事はですね、結局自分の信心心がです、神様にどれほど向いておるかと言う事をいつも確かめておかなければおられないと言う事です。
私、ここ十四、五日風邪がすっきり致しません、今日もお風呂に入らないつもりでおったんです、それで神様に今日はお風呂に入りませんと言う事をお届け、お願いをさせて頂きましたら、神様からですね、今の心の状態なら、今の心の状態ならお風呂を頂いてもいい、だいたいは好きなんです、もうその時の私の心の状態と言うことはどう言う事かと言うと、もうそれこそ、生き生きとして神様に心が向いておったと言う事です、ね、例えばどうも寒気がする、お風呂にはいらんが良かろう、けれども私の心にはどの病気のかかわりのない、別の意味合いです、私の心の中に生き生きとした、いわば心が、言うなら、信心の心が心の中に赤々と燃えておった、ね、そう言う気持ちの時には何をしてもどう言うことをしてもおかげだと言う事なんです。
いちいち神様にご真意を伺わなくても、自分の心に信心のなんか生き生きとした修行の心、または生き生きとした信心の喜びが自分の心にある時には何をしても良い時なんだ、そういう時に何をしてもと言うて、まあ、いうなら神様がこんな事をすきなさらんといったような事をするはずはありません、心の中に喜びが一杯の時ですから、ね、自分の心の中に信心の喜びが本当に一日おかげを頂きまして有り難うございますと言うその心の状態がもっておる時ならです、少し寒気がしとるからと言うてお風呂を頂いたからと言うて、それで悪くなる事はないと言うこと。
私は好みしのぎのできる信心とはそう言うようなことじゃなかろうかと、いちいちお伺いをするといったような意味ではなくてです、私の心の中に生き生きと心に神様に打ち向かい、生き生きとした喜びの心が私の心の中にあるとき、ね、生き生きとした心で私共はそれを成させて頂くなら、それは例えば風邪を引いておるけれどもお風呂に入らせて頂くですら、その為に風邪がひどうなるといったような事はないと言う事、何をしてもこれなら間違いのない道を歩かせて頂くことができると言う事なんです、ね。
ですから、本当にいちいちお取次ぎを頂いて信心の稽古をさせて頂くと言う事、ね、そんな事も有り難い、けれども、生活の前面に渡って御取次ぎを頂いて信心の稽古をさせて頂く、信心の恵子をさせて頂くと言う意欲が非常に激しい心の中に燃えておる時、そう言うときなら、いわば、何をしてもそれはお取次ぎを頂いて、おかげを頂いておると言う事と同じ事だと言う事。そう言うようなことを私は感じたんです。
どうぞお取次ぎを頂いてということは言われます、御取次ぎを頂いて生活前面におかげを頂いて行くと言う事は、なかなかデリケートなところがあって難しいんですけれど、ね、そこんところを一つ、といいながらもやはり御取次を頂かなければおられないと言うようなこともありますもんね、これはお伺いをしなければ決まらんといったような事もありますよ、それはそうとして、日常の中に私共の心の中が神様に向こうていく、そしてなさせて頂くことならば、それはそのままお取次ぎを頂いてならせて頂いとると同じ事だと言うようなことを私は今日感じたんですね。
どうぞ。
]